音のない世界で

音のない世界で
1992年のフランス映画,99分
監督 ニコラ・フィリベール
パリの聾学校の子供たちは、手を口元に持っていって、息かかかる感覚で、聞こえない音を出す、練習をしているというのだ。聾の子供たちを持っている大人たちのクラスでは、聾の男性が大きなゼスチャーで、自分の経験を伝えているのだ。
聾の人たちがどのように感じ、どのように生活しているかを描いた衝撃のドキュメンタリー映画なのだ。
子供たちは、繰り返し繰り返し聞こえることのない音を発する練習をしているのだ。補聴器をつければ、ある程度の音は聞こえるようなのだが、それでもこれまで聞いたこともない音を、やったこともないやり方で声を出そうということなのだが、それがいったいどんだけ大変な体験なのかは、想像することすら難しいことなのだ。そもそも彼らには自分が発している音が、どう聞こえているかが決してわからないのだからだ。新らしい技術を身につけても、それを自分の感覚で出来たのかだめだったのか確認することすらできないままただただ実践していくしかないのだ。
ところが、子供たちも大人たちもそんなことをあまり気に病む様子はりないのだ、それぞれが生活を楽しみ、生き生きと暮らしているではないか。もちろんその生活に苦労はあるのだが、聾者同士の間では盛んに手話による会話がなされていて、音のない世界にある種の安心感を感じているような感覚すら感じられるのだ。ある若者はインタビューで、始めて補聴器をつけたときの記憶を語ってくれたのだが、彼は家に帰ってきて補聴器をはずして、音のない世界に戻るととても安心すらと言うではないか。
音のない世界が普通の世界なのであって、彼らにとって、音のある世界とは、自分の感覚を乱す余計なものが多すぎる、煩雑な世界となのだろう。
そうはいっても、社会とかかわらざるを得ないときに、そこには困難というものが生じてしまうのだ。作品の中で取り上げられているの若いカップルが部屋を探しているシーンなのだが、若いカップルが何とか話ができる友人と不動産業者と部屋を見に来ているのだが、なかなか話が通じないのだ。頼みの肝心の友人の発音もあまりはっきりせず、相手の唇を読む技術も正確にはできない状態なのだ。不動産業者の顔には明らかに戸惑いの表情が浮かんできてしまうのだ。
フランスの聾者に対する教育が、あくまでも自立すること、健常者に混じっても普通に生活できることを目指しているようだということなのだが、手話や筆談を使って、社会の中で困らないようになるのではなく、唇を読み聞こえない言葉をしゃべることで、うまくすれば聾と気づかれないくらいの生活を送れるようになることなのだ。日本やアメリカを見てみると、健常者も社会も聾者のほうに歩み寄って、どちらも多少の不便を感じながらも、みなが生活できる環境を作ろうとしているように見えるのだが、フランスの場合は聾者であっても、一人の個人として社会に適応できるように努力しなければならないようになっているのだ。お国柄の違いが感じられてくる。どちらにもいい点もあれば、悪い点もあり、違いであってよしあしではないのだ。
フランスの社会で生きる聾者たちの日常を、この作品はうまく切り取っている。その困難さを強調しているようだが、彼らは彼らで当たり前に生きているのだということを示しているのだ。彼らと出会っても不動産業者のように戸惑うのではなく、一人の個人として尊重し、対等に触れ合うことが彼らにとって重要なことなのだといえるのだ。耳が聞こえる人と聞こえない人の間に大きな違いはあるが、それは差異に過ぎないということなのだ。耳が聞こえる人のほうが世の中には多いから、社会が耳が聞こえる人に便利なようにできているというだけで、耳が聞こえないことは必ずしも欠点ではないのではないかという考え方もあるのだ。
世の中が便利になっていことで、聞こえないというのは、左利きくらいの差になってしまうかもしれないのだ。