ハーフェズ ペルシャの詩

ハーフェズ ペルシャの詩
コーランの暗誦に才能を発揮する青年シャムセディンは、詩への傾倒や教義の解釈に疑問をさしはさまれるが、40日間の修業の後、ハーフェズ(暗誦者)の試験を受けることを認められ、見事ハーフェズとなった。そして、チベットから帰国したモフティ師の娘ナバートの家庭教師に任命されるが、ハーフェズはナバートに恋をしてしまう…
イランを代表する映画監督のひとりジャリリが麻生久美子を迎えて撮った作品。ハーフェズは今もイランの人々に愛される実在の詩人である。
徹底したアンチクライマックス、何かが置きそうな気配があり、実際に何かが起きるのだけれど、そこにドラマティックな展開はなく、時の部分と同じように流れていく不思議さ。たとえば、苦労して500枚のパンを手に入れたハーフェズが、それをトラックで運び帰る途中、同じような袋を持った一団が乗ってくる。これは何かあるなと思うと、案の定ハーフェズが寝ている間にその男達が袋を一緒に持ち去ってしまう。しかし、この作品はその展開をさらりと見せ、後でハーフェズが探しに行くシーンはあるが、彼も簡単にあきらめただ一度大声を上げるだけで、そのシーンは幕を閉じる。
そしてそのようなアンチクライマックスの出来事の反復がこの映画を規定する。何かは起きるが、そのどれもが物語に対して決定的な役割は果たさず、全体を大まかに見ればただ同じようなことが繰り返されているだけにも見えるような展開の仕方をするのである。
アンチクライマックスはこの映画特有のものではない。他のジャリリ映画、そして他のイラン映画にもよく見られるものだ。イラン映画の名作といわれる作品の中にはこのような反復によってリズムを作り、それが作品の味わいを生むというものが少なくない。たとえばキアロスタミの『友だちの家はどこ』のジグザク道、マフバルバフの『サイクリスト』の自転車で回る広場、それらは果てしない反復を文字通り表現するものだ。この反復がどこかでコーランの詠唱と重なり合うのではないかと思えてくる。この作品でもたくさんの大人や子供がひとところに集まって詠唱しているシーンが何度か出てくるが、コーランは聖書のように読んでその意味を解釈したり考えたりするものではなく、繰り返し唱えるものなのだ。コーランは神の言葉そのものであり、それは解釈すべきものではない。それは唱えることによってそこに何かが宿るものなのである。その詠唱の反復と映画における反復、これはどこかでつながっている。物事が反復され、そこにクライマックスがないという映画の状態はコーランと似て、その反復に何かが宿る、あるいはそこから何かが浮かび上がってくるものなのだ
。ハーフェズの旅は鏡を拭いてもらうこととそれに対するお礼の反復からなる。彼はその反復からそのたびの意味を理解していき、それを追うシャムセディンもその反復から自分自身を見出していくのだ。その単調な反復はもちろん退屈だ。しかしその退屈の仲からひそやかに浮かび上がってくる"意味"は与えられたものではなく、それぞれが自ら見出したという意味で貴重なものだ。だから、敢えてその意味をここには書かないが、一言で言うならば、彼の旅はやはり愛を求める旅であったということだ。そしてそれは愛想のものの意味を問う旅でもあったのだ。
さて、このイラン映画に突然入り込んだひとりの日本人、麻生久
美子についても書かなければならないだろう。そもそもはカンヌ映画祭で『カンゾー先生』を見たジャリリ監督がほれ込み、5年越しのオファーで出演が実現したということで、ありがちな日本でのヒットを狙った作戦というわけではないようなのだが、しかしやはり日本であるいは日本人としてみる以上、これは避けては通れない問題だ。イラン人の中に日本人が一人いるという印象は否めず、いくらイランが多民族国家であるといっても無理があると思ってしまう。特に、彼女の発する言葉はどうしても日本語的なイントネーションで、強弱のはっきりしたイラン人の発生とは明らかに異なっている。だから駄目かというとそうでもないとも思う。彼女が抱える違和感は同時に彼女の特別さにもつながっている。彼女の存在感と透明感はジャリリ監督がほれ込んだというだけあってこの作品世界の中で異彩を放っている。それはハーフェズとシャムセディンにとってのイコンであることの説得力を十分に持つものだ。日本人であるから気になることなのかもしれない。彼女のことを知らないイラン人やヨーロッパ人にはさほど問題にならないのかも知れないとも思うのだ。